2012年



ーー−3/6−ーー 初めてのクロカンスキー 


 先日、初めてクロスカントリースキーなるものを体験した。と言っても、競技ではない。体力トレーニングを目的とした、歩くスキーである。場所は白馬村のスノーハープ。長野オリンピック、パラリンピックの距離競技場である。ちなみに私は長野パラリンピックのときに、ボランティアとしてこの場所で数日を過ごしたことがある。

 以前、松本在住の女性のブログに、スノーハープでのクロカンスキーのことが書いてあった。クロカンを専門にやっている人ではないが、シーズンに2、3回、天気が良い日を選んで出掛けるとの事だった。自然の中を歩いたり滑ったりするのが、とても楽しいと書いてあった。その時は興味を持ったが、実行せずに過ぎてしまった。

 2月初めに遊びに来た友人から、クロカンスキーを勧められた。彼は北海道出身なのだが、札幌近郊にはクロカンコースがいくつもあって、市民の冬場の楽しみになっているそうである。体力トレーニングにもなり、運動不足になりがちな冬場の健康活動として最適だと言われた。しかも、オリンピックコースが一般に開放されているなら、利用しない手は無いと。

 ネットでスノーハープを調べたら、利用料金は格安だった(一日300円)。道具を持ってない人には、レンタルが利用できると書いてあった。レンタル料はそこそこの金額であるが、一式を借りても、ゲレンデスキーのリフト代と比べれば安かった。

 ところで、我が家がこの地に越してきてすぐの冬、父が松本のスポーツ店でクロカンスキーを買ってきた。どうしてそのような気になったのかは、分からない。そして雪が積もったある日の朝、父は嬉々としてスキーを履いて前の畑に繰り出し、出だしで転んで捻挫をした。それ以来使われていない板があったはずだ。

 物置を探したら、その板が見つかった。靴は、父と私では全くサイズが違うから、使えない。ストックは、山スキー用の、伸縮式のもので良いだろう。となると、靴だけ借りれば良さそうだ。話は急に具体性を帯びてきた。

 2月20日、間違いなく晴天が予想された日、軽トラに道具を積んで出掛けた。スノーハープまでは50分ほどの道のりである。到着すると、駐車場はガラ空きだった。受付のために管理棟へ向かう。管理棟の前には、400メートルトラックの広大な雪原が広がっていた。

 「初めてです」と言ったが、受付の係は驚く様子も無い。たぶんこういうのがしょっちゅう来るのだろう。まず、靴を借りた。靴はビンディングに合うものでなければ使えないそうである。係はビンディングをちらっと見て、それに合うものを出してくれた。そして、ビンディングへの取り付け方を教えてくれた。靴のレンタル料は600円だった。施設利用料とレンタル料を払い、与えられたビブスを着て外に出た。

 大学1年の冬からスキーを始め、ゲレンデスキーも山スキーも、それなりにやってきた。だから、スキーには少々自信がある。そんな自分だが、この細い板と、運動靴のようなブーツには、違和感があった。コースには、合宿中のスキー部員とおぼしき連中が、何人か滑っていた。その動きを見て、真似をして歩いてみる。トラックで足慣らしをした後、林間のコースへ進んでみた。

 クロカンのコースは、圧雪された林道のような感じだった。その右端に、ちょうどスキーの板が納まる巾の溝が、平行に二本刻まれていた。この溝が何を意味するのか、始めは分からなかった。専用の道具で掘られた溝で、クラシカル競技の場合は、この溝の中でスキーを滑らせることが決められていると、後で知った。それでは追い抜けないではないかと思ったが、競技の場合は複数の溝が作られ、追い抜くときは脇に移動するらしい。

 クロスカントリースキー競技には、クラシカルとフリースケーティングという二種類がある。クラシカルは溝から外れてはいけないが、フリースケーティングはスケーティング走法が許される。この日目にした選手たちは、ほとんどがスケーティングをやっていた。コースには逆ハの字の跡が無数に付いていた。

 コースは平坦ではない。起伏の繰り返しである。ほとんどは緩やかな勾配だが、たまにきつめの登り下りがある。その下りが厄介である。ゲレンデスキーなら何ともない傾斜でも、安定性に欠けるクロカンスキーでは恐ろしい。溝の中を滑ると、スピードが出過ぎたらどうしようもない。そこで、圧雪されたバーンを、ボーゲンで降りるのだが、板がグラついてとても不安定である。下りなんか無ければ良いのにと思うくらいであった。

 それでも、雪の林の中を移動するのは気持ちが良い。林から出て、耕作地の縁を通過する区間もあった。目の前に雪原が広がり、その向こうに北アルプスの稜線が望まれた。とても爽快な気分になった。

 5キロのコースを3周歩いた。累積標高差は550メートルほど。およそ3時間のエキササイズだったが、かなりの運動量であった。山歩きと違って、腕、肩、腹筋など、全身に疲れが来た。しかし何と言っても、大腿部の疲労が激しかった。これは体力トレーニングとして最適であると思われた。

 夕方、靴を返すときに、係りの人と話をした。年配の男性だったが、丁寧に教えてくれた。靴にもいろいろ種類があり、目的に応じて選ぶのが良いそうである。そういうことに関心があれば、すぐに上達すると言われた。私が、別に上達しなくても、歩くだけで満足だと言うと、上達してスキーが思い通りに滑るようになると楽しいですよと返された。

 いずれは自分の靴を手に入れて、自然の野山も歩いてみたいと思う。先週末、松本へ出る用事があったので、登山用品店を覗いてみた。意外にも、クロカンスキーの道具は置いてなかった。やはりやる人が少ないのだろうか。




ーーー3/13−−− 凍結道路の恐怖


 
信州へ越してきておよそ23年が過ぎた。この地では、冬場に道路が圧雪や凍結状態になることがある。20回以上の冬を経験して、凍結した道路の運転にも慣れているつもりだった。今まで、事故を起こしたことは無いし、怖い思いをした事も無かった。ところが先日、初めてギョッとする経験をした。

 2月にスキー場へ行った。中央線沿線の富士見パノラマスキー場。千葉から来る友人と、現地で落ち合う計画だった。家を出る時に、友人からスキー場に着いたとの連絡が入った。予定よりだいぶ早く着いたのである。それで慌てたわけでは無いが、多少は気が急いていたかも知れない。諏訪南インターで高速を降り、スキー場へ向かう坂道を登る軽トラのアクセルは、グッと踏み込まれていた。

 真っ直ぐな道路で、路面は乾燥していた。行く手に、一部わずかに凍結した場所が見えた。そこを通過した直後、突然車体が大きく振られた。ハンドルが勝手に動き、一瞬手が離れたようになった。車は大きく蛇行し、一時は対向車線にはみ出し、横向きに近い状態にもなった。私は、車が横転するか、あるいは道路から飛び出すのではないかと感じた。

 時間的には短いことだったろう。なんとかハンドルにしがみついて、右往左往するうちに、車は正常な走行に戻った。私は、顔から血の気が引いたような感じがした。全く予想もしない出来事だったのである。

 何故そのような事が起きたのか。現場の状況を思い出しながら、考えてみた。

 凍結部分は、ほんの10メートルくらいだったと思う。道路際に樹があって、その陰になった部分が凍っていたのだろう。そして、通行している車線の半分の巾だったと記憶している。つまり、片側の車輪だけが凍結部分に掛かったことになる。それほど急な勾配ではないが、坂道だったので、エンジンはふかし気味だった。軽トラだから後輪駆動である。四駆モードは外していた。

 ここからは推測である。

 坂道だから、駆動輪には大きめの力が掛かっていた。直線で、視界が良く、周囲に車も無かったので、スピードも少々出ていたかと思う。凍結部分に差し掛かり、左側の駆動輪がスリップし、空転を始めた。右側の車輪は地面を掴んでいる。駆動輪は、ディファレンシャル・ギヤによって、抵抗が少ない側に大きな力が伝わる。つまり、氷の上で空転する車輪には、大きな動力が掛かった。凍結部分が過ぎると、空転していた車輪が地面との接触を回復し、突然大きな力が生じた。正常に地面の上を回っていた反対側の車輪とのバランスが崩れた。それが車体の方向を曲げた。いったん傾くと、後ろから(後輪から)車体を押す形なので、激しく揺さぶられた。

 これまでも、雪道を走っている時に、片側だけ固い雪に乗っているような状況は、何度も経験したことがあった。そういう時は、「スリップして横ずれやコースを外れる心配は無い。もう片方は地面に接しているのだから」と自らに言い聞かせて運転してきた。

 今回は少し違う状況だったが、想定外の現象が起きて、恐ろしかった。空転したタイヤが、突然怒りを爆発させたように、車体を捻じ曲げたのだと思う。たぶんそれに間違いない。





ーーー3/20−−− 坂本龍馬の拳銃


 だいぶ前の事だが、息子が学生寮から引っ越す際に、不要な所持品を段ボール箱に詰めて送ってきた。その中に、貸してあった三脚も入っているはずだった。先日、それを思い出して、放ったらかしになっていた箱を開けた。三脚はあったが、目を引いたのは一番上に載っていた細身の拳銃だった。

 もちろんモデルガンである。しかし、たいていのモデルガンはプラスチック製だが、これは金属製で、グリップには木が使われていた。見た目にも、持った感じも、本物の拳銃のようだった。もっとも、本物の拳銃を持った経験は無いが。

 回転式弾倉を、中折れ式で着脱するタイプのものだが、銃身が上に折れる仕組みが珍奇な印象だった。実機がこんな構造で弾丸を発射できるのかと、疑問に感じた。

 モデルガンと言っても、実際の拳銃のレプリカではないものもあるらしい。つまり、玩具メーカーのオリジナルということも考えられる。銃身に刻印があった。SMITH & WLSSON SPRINGFIELD MASS と書いてあった。二番目の単語は、WESSON をもじったものだろう。刻印を使用する許可を得ていない場合、このような手を使うらしい。SMITH & WESSON は銃のメーカーで、マサチューセッツ州のスプリングフィールドにある。

 試しに、ネットで検索をしてみた。そうしたら、このモデルガンは、SMITH & WESSON 社のNo2というモデルの忠実なレプリカであることが判明した。南北戦争の頃に、大量に作られた拳銃だそうである。米国の動画サイトでは、実機の銃で射撃をしているシーンもあった。

 その当時の拳銃は、こんな物だったのかと、ちょっと驚いた。意外にチャチな代物である。こんなものが兵器として出回り、殺人に使われていたかと思うと、ぞっとした。

 さらに国内のサイトを見たら、このSMITH & WESSON No2という拳銃は、坂本龍馬が愛用していたことが分かった。高杉晋作から貰った物で、寺田屋事件の時に全弾を発射して役に立ったが、逃走中に紛失したとか。ちなみに後日暗殺されたときに所持していたのは、もっと小型の、別の拳銃だったそうである。

 坂本龍馬が所持し、さらに実際にぶっ放して身を守った拳銃(のモデル)がこれだと思うと、感慨深いものがあった。

 先日息子と電話をする機会があったので、このモデルガンのことを聞いた。学生時代に、映画研究会の先輩から貰った物だそうである。買えば結構な値段だろうが、気前が良い、高杉晋作のような先輩だったのだろうか。





ーーー3/27−−− 木の大学の思い出


 1990年代の一時期、「木の大学」に参加したことがあった。大学と言っても、既成のものではない。古代ギリシャのアカデミーの精神にのっとり、勉強をしたい者が金を出し合って、その道のオーソリティーを招き、講義を受けるという形である。受講者は、様々な職種、様々な年齢の、40名前後だった。

 毎年夏に、つくば市にある「あかまつ宿舎」で、4泊5日程度の日程で行われた。その施設は、筑波の科学万博の際に、カナダ館のスタッフの宿舎として建てられた木造の建物で、このようなイベントの会場としてまことに相応しいものであった。そこに寝泊りをし、講義を聴き、食事を自分たちで作る日々は、まるで学生時代の合宿のようであり、楽しい思い出に溢れている。

 抗議の内容は、グローバルな視点から木を考えるという方針で選定され、森林学、生態学から、木の道具、楽器、香料、木にまつわる神話、お菓子、はたまた木登りまで、多岐に渡った。講義は午前と午後に一つづつ設けられていたので、期間を通して6、7件のテーマについて聴講できた。

 様々な分野の専門家による講義は、それぞれとても興味深いものだった。ある大学教授は、講師として招かれたのだが、この企画が大いに気に入ったとみえて、自身の講義が終わった後も滞在を延長し、聴講席の後ろの方に座って、最後の日まで参加した。

 印象に残っている講義はたくさんあるが、一つの言葉が今でも思い出される。それは京都大学名誉教授、森林生態学のオーソリティーの言葉だった。

 「子供がアリなどの昆虫を殺すことに熱中することがある。今の親は、そんなことは悪い事だから止めなさいと禁止する。わたしは、そのような指導に賛成できない。それは身近な自然から子供を遠ざけてしまう結果になるからだ。大人になってからも、アリを殺し続ける人はいない。子供は成長するにつれて、アリを殺したことに罪を感じ、命を弄んだことを反省をし、自らを悲しく感じるだろう。それは大切な体験なのだ。

 子供がアリを殺したからと言って、アリが絶滅することはない。それに対し、自然体験から隔離され、受験勉強ばかりやらされた子供が、大人になって科学者になり、自然の摂理を無視した農薬や殺虫剤を開発すれば、そのためにいくつかの種が絶滅する危険もある」













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